こちらが必死で授業すればするほど生徒たちには理解しにくくなる、という状況は結構
多い。こんな時私はよく授業を中断して質問の時間にする。「よ〜っし、今日はワシも
疲れたけ〜、授業はやーめた!残りは質問の時間にしよう。わからんことあったら
回って行くから言えよーっ。ただし、ざわついたら授業じゃーっ!」
まさに「ホットケ」だ。ちょっと聞こえが悪いので、「積極的ホットケ」としておこう。
一見放っておいて何もしていないようだが、ある意味これが「積極的授業」になる
「場面」も多い。それより何より、お互い気分がリラックスできるのがいい。
一瞬生徒たちの表情が緩んで、教室全体の空気がフッと軽くなる。もちろん解き放た
れた生徒たちの中には、周りとざわつき始めるのもいる。しかし、本当にわかりたい
と思ってストレスをためていた生徒は、ここぞとばかり質問してくる。これは何も勉強
のできる生徒に限った話ではない。できない生徒も質問してくる。オモシロイ、この辺
が実にオモシロイ。勉強ができない生徒といえども、決して放棄はしていないのである。
わかりたいという欲求は程度の差こそあれどの生徒にも存在する。先生サイドは
「授業がわからないから生徒はざわつく」と考えた方がいい。ガンガン授業で押しまく
っていたところを、フッと力を抜いて生徒に対すると、ポロッと生徒の本音がこぼれる。
いくら厳しく取り調べても真相を白状しなかった容疑者が、ちょっとした世間話が
きっかけでポロリと自白してしまう、といったケースによく似ている。
教師という仕事、人からは「せんせい、せんせい」と崇め奉られる身分であるだけに、
陥りやすい大きな落とし穴がある。「聖職」なんて誰が言ったんだ!?先生は聖人では
ない。一人前にスケベだし、サボるし、信号無視だってするし(笑)、犯罪にならない
程度にワルサもするし、時にはウソもつく。そんな当たり前のことを認めた時に初めて
生徒の訴えかけんとする所がよく見える。すれば、素直に力を抜いて生徒に対する
ことはたやすい。一時的に力を抜くだけであって、決して自分の主義を曲げるという
ことにはなるまい。
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3月11日、本年度の授業がすべて終了した。この先生もやっとあのクラスから解放
される。最近のこの人の顔にはまったく余裕というものが感じられなかった。
「終わりましたね〜♪」と声をかけると、「や〜っと終わったわい!」 本音を漏らす。
正直言うと、個人的にはあのクラスには少々名残惜しいものを感じている。
1年を終えて、「や〜っと終わった」と感じるか、「名残惜しい」と感じるか。この差は
途中でどのくらい力を抜いたシーンがあったか、の差にすぎないが、とてつもなく大き
な差のように思う。少なくとも私はほとんど何のストレスもなく、あのワイルド・アニマル
どもと接することは出来た。これがベストとも言い切れないが、来年彼らと廊下ですれ
違ったときには、笑顔で接することはできるだろうな〜。
意図的な「ホットケ」は、仕事から日常生活から、つまるところ、人生までをも、円滑に
営むための、りっぱな一つのメソッドになりうるのではないだろうか?