中年オヤジに・・・メス!


生まれて45年間、かすり傷以外には一度も傷つけたことのない私の身体に初めてメスが

入った。急性虫垂炎(俗にいう盲腸)の手術である。盲腸というのは病気のうちには入らな

い、と言い切る人は多い。この私も手術を受ける前までは漠然とこの迷信を鵜呑みにして

いた。外科の先生から「CTの結果アペ(盲腸)であることは明らか。ただし、患部が裂けて

中身が漏れ出ている可能性がある。」と聞かされ、即刻手術という運びとなり、その場です

ぐに手術着に着替えさせられ、家内には手術の内容が話される。この「私抜き」での会話

内容が非常に気に掛かる。「奥さん、ご主人は非常に危険な状態です。一応の覚悟はして

おいてください」なんて話が行われてるのじゃなかろうか?こんな状況での想像はいい方

には及んでくれない。ますます不安がつのる。


時間だ。担架に乗せられた私は10階の手術室へと運ばれる。手術室へのドアが開く。こ

こから先は関係者以外入れない。ココで家族とはお別れだ。なにやら永遠の別離を錯覚し

てしまうくらいこの1枚のドアの存在は・・・重い。手術室の中に入ってまず私を出迎えてくれ

たのは若いネエチャン。


「オイオイ、コイツはいったい何者じゃ!?」

「待てよ、このネエチャンどこかで見たことあるぞ・・・・誰だったっけー?」

「アッ、そーだ!NHKのドラマに出てた!アイツだよ・・・絶対に!」


以前NHKで「女消防士」をテーマにしたドラマがあった。そのドラマの主人公に、初の

出動で、あるラヴホテルの火災の消火活動中偶然にも自分の男の浮気現場に遭遇した

勝気な女の子がいた。まさにあの子だ、このネエチャンは。どこから見てもソツクリ!


「この子はいったい私の手術の何を担当するのだろう???」


どうやらこのあたりからである、私の想像が滑稽な方向に向き始めたのは。何となくあの

勝気な性格から、「おいコラおやじ!早くパンツ脱げ!盲腸の手術するのにパンツはいて

たら仕事になんねーだろうが!」なーんて言われそうじゃー。コワ〜〜。

ふとこんなことが脳裏をかすめてからというもの、私の心配はかろうじて履いていた私の

パンツとその中に隠れている私のお粗末くんのことに集中し始めた。手術室に入る前の

不安はどこへいったのやら・・・。


「盲腸の位置から考えてこのパンツはいずれは脱ぐことになるのか!?」

「イヤダー、そんなん。だって、1,2,3、・・・・8人もいるじゃないか!」

「そそそそーんな殺生な〜。しかもなかにはあのファイヤー・ガールを含めて女が3人も!」

「こいつら全員にオレのお粗末くんが見られてしまう〜!これだけは何としても阻止

しなければ〜!」

「百歩譲って7人までは仕方がない、見せてやろうじゃないの!仕事だからな!」

「しかーし、ファイヤー・ガール!お前はダメだ。お前にだけは何としてでもオレのお粗末くん

は見せられない、見せてやるもんか!何言われるかわかったもんじゃないからなっ!」


ファイヤー・ガールと目が合った。一瞬私は股間に力を入れた。「脱がせてなるものか!」

執刀医が私に話しかけて来た。


「山根さ〜ん、コレ痛いですか?」 麻酔が効いたかどうか確かめるために私の身体を

つねっているらしい。鈍く何かを感じる。「ええ〜と、微妙に何か感じます。」

しばらくしてまたあのファイアー・ガールと目が合った。とっさにまた股間に力を・・・

のつもりであったが全く力が入らない。麻酔がそろそろ完全に効いてきたようだ。

「どうしよう。これはまずいぞ!下半身に力が入らない!」

再び執刀医が、「山根さ〜ん、コレ冷たいですか?」 今度は何かメスのようなものを

あてているらしいが、全く感じない。「いえ、何にも感じませんが。」


にわかに辺りが忙しくなってきた。もうメスは入ってるのか??

「山根さ〜ん、ちょっとパンツずらしますね。」 「は、は、はい、どうぞ。」


本当にちょっとだと私は思っていた。と、次の瞬間私のつま先を何かがすり抜けた

ような気がした。下半身に目をやっても見えない。私の腹部には手術用の台のような

ものがのっかってて、下半身がどのような状態かは全くもってわからないのである。

ところがその一瞬の何かがすり抜けた感覚??が私の視線をその方向に向けた。果たして

そのずっと後方にはあのファイアー・ガールが私の紺色のトランクスを紙袋に入れている

姿が。「クソー、しまったー。やられたー。」

心なしか、ファイアー・ガールの表情は勝ち誇っているかのように見えた。

「あのいまいましいファイアー・ガールめ!あいつはやはりオレのパンツを脱がせる

ための要員だったのかー!してやられたー!」


いやー、しかしながら見事な連携プレイ。麻酔が効くまで「えっ?パンツ脱がなくていいの?」

と錯覚してしまうような雰囲気を作っておき、麻酔が効いてくると目にも止まらぬ早業で

サッと脱がしてしまう。あとはそ知らぬ顔で手術続行だ。手馴れている。完全にオレの

負けだ。相手のほうが一枚も二枚も上手であった。


そうこうしているうちになにやら下腹部に鈍いえぐるような痛みが走り始める。

腸を引っ張り出して糸で縛っているのがハッキリわかるくらいの痛みだ。

「ぜんぜ〜い、いいいいだいんでずがぁぁぁああああ〜!」

私はたまりかねて情けない叫び声をあげた。じつは私の身体は麻酔が効きにくい。

このことは以前からわかっていたことなのであるが、「盲腸だから大丈夫だろう」という根拠

のない迷信にとらわれて、担当医には話していなかったのである。困ったスタッフは麻酔科

の先生を呼びしばらく話し合いをしている様子。その間私の腸は縛られたまま、とても口で

は言い表わすことのできない痛みが・・・。「ぜんぜ〜いい、いだ〜いい。」

話し合いの結果全身麻酔に切り替えることになり、再び背中から麻酔薬が入れられる。


どのくらい時間が経ったのであろうか?気がついたときにはすでに私は病室に寝かされ、

側には家内と私の母親が付き添ってくれていた。時間を見るとすでに5時過ぎ。

当初の予定では1時間ちょっとで終了するはずだった手術は結局4時間近くかかった

ことになる。いやー、寝ている間ではあったが、何か疲れた。どっかりと何か重たいもの

が上からのっかっているような気だるさだ。私はふと自分の全身に目をやった。

で、愕然とした。全身に管がはりめぐらされている。点滴の管は腕の血管に、口には

酸素吸入のマスクが、で、で、で、お粗末君にも管がついている。

「なんじゃこりゃぁぁぁあああ〜!」


自分ひとりでは何も出来ない状態・・・これが2日も続いた。私の身体は点滴と酸素

吸入と排尿用の管によって活かされている、といった状態であった。

寝たきりである。そのせいか、いや間違いなくそのせいで、背中がズキズキ痛む。

看護婦の明るい声かけ、病室のボソボソした話し声、外で何度も鳴り響く救急車の

サイレンなどなど、通常ならば何の違和感もなく耳に入ってくる類のすべての音が

煩わしく、かつ腹立たしく、かつ虚しく響く。


2日後、やっと全身に取り付けられていた管が点滴を除いてすべて取り除かれた。

何とも言えぬ開放感!普通であることの有り難味が心底身にしみる。

5日目には点滴の必要性もなくなり、通常のただの風邪でもこじらせた程度の

患者レベルに復帰。着実に私の自然治癒力が働いているという実感がある。

どんなに優れた薬もこの自然治癒力を助けるためのものにすぎない。基本は

やはり患者自身の健康を取り戻そうとする気力と体力に負うしかないのである。

人間の体ってすばらしい!

実際、「たかが盲腸、されど盲腸」である。侮れない。これほど手術というものが

苦しいなどとは想像すらしていなかった。正確に言うと、手術を含めて入院という

イベント自体苦痛以外のなにものでもない。


我々人間は「実際の痛みを知って初めて、日頃何でもなかった物事の有り難味を

悟る」というところが誰にもある。今回の手術で少しばかり人生観変わったかな!?

日頃家内にいたぶられながら「ハイ!ハイ!」と働かされている自分が好きだ!

父親ばなれしつつある娘たちから「キモッ!あっち行って!」などと虐げられながらも

しつこく「ねーねー、父さんと遊ぼ?」と食い下がるオヤジ山根正樹も好きだ!

野郎どもばかりを目の前にしてドスケベトーク炸裂させて授業するS高校の山根先生、

コイツもいい!

一転鬼塾長に変身する山根塾の自分も好きだ!

仕事が終わると即車に飛び乗り釣り場に急ぐ落ち着きのない子供のような自分も好きだ!



外の空気が実に美味い!何か、自分にだけでなく、他人にももっとやさしく

なれるような気がする。